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はじめに—3つの記憶
1 昔,1988年秋のことだが,スウェーデンのルンド市で高齢者ケア施設を見学したときに,ウィング端の洒落たラウンジのテーブルの上に陶器製のかわいいガチョウが3羽乗っていた。施設をできるだけ慣れ親しんだ生活空間とするよう,入居者は自室に自分の家具類を持ち込めるのだが,施設自体にも様々な工夫や配慮がなされていた。例えば,椅子は要介護の高齢者向けに少し形を変えていたり,座りやすくするためにダブルクッションにして下のマットはやや硬めのものにしたり,クッションの内側に防水カバーを入れて失禁などの際に洗濯が容易にできるようになっていた(木下,1992,部分再録,2009)。
このガチョウたちも生活感の演出に一役買っていて,工芸品として購入されたものであった。予算の一部を,芸術品(絵画や工芸品など)にあてることになっているという説明を受けた。ケアを受けながら暮らす高齢者たちの生活空間に,実用的ではないが必需品として芸術品を位置づけ,さらに予算化が指示されているのは政策的な判断と思われた。当時,筆者の関心はケア施設の機能的脱施設化で,特に建築空間にあったのだが,全体からみればごく一部であろうが価値の置き所を印象づけられた。
2 現在は急速な経済成長を続けているが,少し前には最貧国のひとつとされたバングラデシュで,貧困対策としてNGOが実施しているマイクロファイナンス(無担保少額融資)について,農村地域で調査をしたことがある(木下,2010)。これは世界最大のNGOであるBRAC(旧名:Bangladesh Rural Advancement Committee)の基幹事業なのだが,この組織はそれを中心に,住民の生活全般の改善に取り組んでいた。ターゲットは女性たちで,毎週開かれる返済ミーティングでは所定の返済だけでなく貯金を奨励していた。融資自体が少額なので貯金となるとごくわずかな額だが,経済的自立を意識させるためであった。この集まりでは保健指導や衛生管理の方法,人権やジェンダーの考え方がBRACのスタッフによって説明され,たくさんの子どもたちが周りで眺める中で,女性たちは車座になって講師の話を復唱する。識字率が低いためでもある。BRACはまた,女性たちが融資を活かして生産する手工芸品,卵や牛乳などの販売ルートを独自に開発し,さらに都市部を中心に最先端のインターネットの情報通信事業や小中規模事業者への銀行業を手掛け,さらに指導者の育成を目的に大学院を重視した大学の設立など複合的事業体として成長しており,雇用を創出している上に自己資金割合が7割超という驚異的なNGOである。まるで資本主義の原点が想起される実践で,収益は配分されるのではなく活動資金に投下されている。
農村での返済ミーティングはトタン張りの小屋で開かれるのであるが,ここはnon-formal schoolとしても使用され,公立小学校に就学できない貧困家庭の子どもたちを対象に1日3科目,午前と午後の二部制で基礎的教育を無償で提供している。教師には住民の女性をリクルートし,BRACが独自に養成している。人材育成はBRACの活動の潤滑油のような機能で,こうした教師だけでなく,もとは下痢対策の経口補水液のキットの販売から普及した各家庭訪問の保健指導員も地域住民で,定期的なフォローアップを含め独自の研修制度を完成させている。
non-formal schoolで教えられている3科目とは,日本的にいえば読み書きそろばんの国語と算数,そして,もう一科目が音楽であった。親たちを説得し,繁忙期には子どもたちを休ませるなど柔軟な運営をしているが,いまではこの事業もBRACを代表する規模と実績となっている。限られた科目数に,なぜ音楽が入っているのだろうか。
3 パレスチナのドキュメンタリー映画で,記憶があいまいだが,おおよそ次のような内容のものがあった。イスラエル軍の圧倒的な支配下での出来事で,夜間にパレスチナ住民地区にパトロールで侵入してきた装甲車を若い男性たちが投石で攻撃する。そして,反撃に遭い命を落としていく者がいる。双方にとってわかり切った儀礼のように繰り返される出来事なのであるが,その中には乳飲み子のいる若者もいる。希望が完全に封じられた環境は若い男性たちをそうした行動に駆り立てる。無謀さを皆がわかっていながら拒絶できない圧力がパレスチナ人たちの内部から生じていたことが,ひどく印象に残っている。そうした状況の中で,年老いた女性が子どもたちを集め,集落の一角で一緒に壁絵を描く活動をしていた。
三題噺—この後さらに続くのだが—といえばそれまでなのであるが,これらは高齢者ケアであったり途上国の開発支援であったり地域紛争であったりというように個別に理解でき,扱う学問分野も高齢者福祉論,開発援助学,国際政治学など別々である。しかし,他方では,人が日々を生きるとはどういうことなのか,困難な状況にあって生きる力は何によってもたらされるのか,という普遍的な問いを提起している。手工芸品・音楽・壁絵,そして,要介護高齢者・貧困下の農村の子どもたち・絶望の共同体で育つ子どもたち,あるいは,スウェーデン・バングラデシュ・パレスチナ……普遍的な問いは個別性の中に浮上するのだが,反転して個別性を超えたところで具体的に波及していく。哲学の課題というよりもすべての人々の現実的実践の中にあり,広く「アート(art)」と呼べる種々の具体的活動を媒介とすることによってひとつのつながりが形成,共有される。
原因が何であれ人が生きるのは常に過酷さを伴うわけで,そこにケアの原点がある。個人の問題をどこまで,どのように共有できるかをめぐって人間についての学問が形成されてきたのであり,その母体はヒューマニティーズにある。人文学と総称されるが,社会科学を含めてもよいであろう。宗教,文学,歴史,文化,芸術など人間の存在についての探求は,広くリベラルアーツ,教養と呼ばれることもある。アーツには方法の意味が含まれるが,ここでの意味は具体的なスキル(skill)ではなく,「知の技法」というときの技法にあたる。芸術に限定されるのでもない。身近に引き寄せて,全体を人間学と理解してもよいだろう。
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