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はじめに
研究室の同僚と食事によく行くのですが,行く相手によってはレストランの選択に気を遣うことがあります。例えば菜食主義者がいる時はどうしても,菜食メニューが豊富なインド料理レストランに行くことが多くなります(それに安い!)。ローマで開かれた学会に同僚数人と出席した時も,1人が菜食主義者だったため,インド料理店を探して街をさまよったことがあります。菜食主義者になる理由はさまざまですが,私が親しくしているスコットランド出身の研究者は,「中枢神経システムをもっている生物は食べない」という信念をもっています。動物には中枢神経があり,苦痛を感じる能力がある一方,植物には中枢神経システムがないので,苦痛という概念は存在しないというわけです。
このような生物学的信念をもった菜食主義者が一般的だとは思いませんが,英国ではここ10~20年で肉を食べなくなった人が増えているようです。その大きな理由はやはり,BSE(牛海綿状脳症)の影響だろうと思います。BSEは,1986年に英国で世界初の症例が報告されたあと,1992年のピーク時には4万頭に迫る牛の感染が報告されています。1996年にはヒトへの感染(新変異型クロイツフェルト・ヤコブ病)の可能性が指摘され,社会問題にまで発展しました。現在では沈静化していますが,菜食主義ではないけれども牛肉は食べないと宣言している人も周囲にいます。
BSEやクロイツフェルト・ヤコブ病は,脳や中枢神経がおかされ,多様な神経症状と運動失調をもたらし,100%死に至るという奇病です。その原因は変異型プリオンと呼ばれるたんぱく質で,生物種を越えて感染するかもしれないという見方が現在最も有力です。1997年,スタンリー・プリシナーは,今までの医学の常識を覆すまったく新しい種類の病原体を発見した功績で,ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。その病原体が変異型プリオンなのです。それ以前の生物・医学界の常識ではプリオンのようなたんぱく質が病原体になるということは,まったく考えられないことでした。ウイルスや細菌など遺伝子をもったものが,ヒトの体内で繁殖し発症に至るのだというのが共通した理解だったのです。遺伝子をもたないたんぱく質が,ヒトの体内で繁殖増殖したり,他のたんぱく質の機能を抑制したりする能力があるとは,到底受け入れがたいものでした。ですから,今から約20年前にプリシナーが研究を始めた頃は,たんぱく質病原体説は「異端」的な扱いを受けていたようです。しかし現在では,変異型プリオンの発見により,たんぱく質も感染症を引き起こす原因になりうることが認知されるようになりました。
今回は,リボゾームで合成されたウイルスたんぱく質が成熟して次世代のウイルス本体を形成する過程を説明します。はじめに一般的なたんぱく質の成熟を説明したあとで,HIVの場合を例にとりあげます。この過程を詳しく知ることは,変異型プリオンのようなたんぱく質がどうして病原体へと変異していくのかについて,多くの示唆を与えてくれます。また感染症ではありませんが,アルツハイマー病や2型糖尿病の原因も,今回説明するたんぱく質の成熟の過程と関係があると考えられています。
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