私の発言
死への援助と看護婦に求めるもの
三木 福治郎
1
1岡山県立短期大学・生理学
pp.1-6
発行日 1977年1月25日
Published Date 1977/1/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663907054
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はじめに
さきに筆者らは“平和な死への援助のために”1)をまとめるために,死をとりまく諸問題について文献渉猟し,死に対する人間心理は動物の本能的な死への恐怖とは異なって,高いレベルのものであり,不安を伴うものであることを知った.人間は瞬間瞬間に生きるのではなく,常に未来に思いをかけ,将来へ希望を抱いて生きてゆこうとしている.また,人間は自己をとりまく係累や友人・知己との間に複雑な関係をもっているので,<平和な死>・<気品ある,美しさと威厳をそえることのできる死>を求めるならば,その生存中から将来への思惑や人間相互の絆(きずな)に終止符を打っておかなければならない.すなわち,<生と死>に対する思索を整え,死生観を確立しておかなければならない.突然に不治の病を知らされたり,死に直面してはじめて,死の存在に気付き周章狼狽(ろうばい)するのではなく,日ごろから生命の尊厳を知るとともに,‘死が生の延長ではなく,生の裏側にあるものとして,日常の中において死をみつめる’という河野博臣氏の論述2)を理解し,生とともに死について考えていなければならない.
看護婦はもともと,病める者の回復のために環境の整備や身の回りの世話をするという実践的な仕事をするために,歴史的にも医師が求められるより早くから必要とされてきた.
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