私の発言
看護衣をつけた教師
中丸 弘子
1
1広島大学医学部付属看護学校
pp.737-740
発行日 1976年12月25日
Published Date 1976/12/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663907045
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養護教諭として
初めて勤めた年は40年4月7日,そこは全校児童数82名の小学校.医療の中で4年間を学んだ後に学校という職場に入ったが,それにはかなり抵抗があったのだと思う.今でも勤め初めのころをよく覚えている.
掃除の時間になった.私はホウキを持ち,子どもたちに交わりモクモクと掃く.すると,ある教師は‘あなたが掃除するよりも,子どもたちに指導することのほうが意味があるのよ’と言う.廊下も雑きんでスベッた.隣りで一緒に雑きんがけをしていた子どもが,力余って前にのめり切歯を折ったことがあった.4km余りある歯科医まで急いだ.教えられた.ある,病気がちな教師は‘あなたが来て助かった.注射をしてもらえますか?’という.定期健康診断の事後措置のことでは保護者通知は‘文書で知らせるのは,この地域では大事件に限る’と注意を受けた.学校保健法では,健康診断の事後措置として,小中学校では一定期間内に保護者通知が義務づけられている.当然だと考えてやったことは,その学校のそれまでの学校保健に対する理解や内容と関連させてやる必要があった.それは,その学校と地域にまず学校保健を紹介していくところから始めることを意味していた.保健室はなかった,廊下の端の0.5坪余りの物置になっていた,2つの開き窓をもつ部屋がそれに当てられた.かわいい小学生向きのベッドを置くのに,ちょうどいい広さであった.
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