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戴帽式についての試みと考察
柴田 洋子
1
,
安河内 芳子
1
1東邦大学高等護学校
pp.615-621
発行日 1972年10月25日
Published Date 1972/10/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1663906627
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Ⅰ.はじめに
東邦大学における看護教育の歴史は決して新しいものではない.大正14年に旧帝国女子医学専門学校創立の翌年,附属看護婦養成所が設けられた.もちろんこれは当時の他の諸大学におけると同等に貧弱な規模と内容のものであったが,昭和20年の戦禍による附属病院の全焼と共に自然廃校となった.
その後は,あまりにも大きかった痛手の故に病院ならびに大学諸施設の復興の遅滞に準じて,昭和31年にようやく准看護学校として看護教育が再開されたが,当時多くの大学,官公立病院では何回めかの高等看護学校卒業生をすでに送り出しているころであった.その間には医学部においても何回かの制度改革があり,現在のような理科系総合大学の形体が整えられてきたのである.さらにおくれて昭和40年に医学部附属高等看護学校が誕生すると同時に准看護学校は廃止となった.この過渡期にはなお種々な問題があり一挙に内容の充実が実現されたわけではない.しかし,次第に教員も学生も,看護の本質と看護教育の主体性について多くのものを学びとっていった.昭和45年には,もっぱら病院側のニードに支配されるようなイメージをもつ病院附属看護学校から脱皮して,東邦大学高等看護学校と改められ,校長も病院長あるいは副院長の兼任という形でなく,看護学校に関連する全教職員による公選ということになった.
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