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“ああ,看護過程”と題をつけたいところだが踏み止まる。ああ,は感情動かされての“ああ”でもあるし,ああそれですか,の“ああ”でもある。思うに,看護過程は私が看護教育にかかわってきたかなりの年月,のどもとに刺さった小骨だった。しかし,ここ10年か,私はさっぱりしたのだ。その証拠,というと大げさだが,この稿を書くにあたり看護過程をめぐる私の立ち位置をざっとふり返ってみたところ,8年前に私は,V.ヘンダーソンの論考「ザ・ナーシング・プロセス─この呼び名はこれでよいだろうか?」の訳者解題のなかで,「the看護過程を何が何でも使うという行き方はおのずから失速していくのではないか」1)と言っているのだった。“失速”とはうまい表現をみつけたものだ,といま思わずにんまり。
看護の基本的にして体系的な進め方として看護過程なる呼び名が内外の看護雑誌に,学内に,学生の実習場に飛び交うようになったのはもう30年以上前のこと。呼び名,といって言葉,すなわち概念,といわないのは,今日広く行き渡っている意味での看護過程には,かような言葉があってよいものだろうか,との疑問がつきまとってきたからである。看護の概念構造にすんなり位置づけることができなかったからである。“それ”は,医は診断し,治療する,では看護は?という看護学探しをまだやみくもにしていた当時のわれわれ(ご異議のある向きもあるとは思うが,ナース一般にはっきり自分を含めて便宜的に“われわれ”を使わせていただく)の問いをさておいて,これぞ学的看護である,といわんばかりに台頭してきた,と思う。しかし,その動向には疑念というか不信感というか,負の気配がまとわりついていた。のどもとの小骨,である。
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