連載 衛生制度の開拓者たち—明治はじめ京都における政策をめぐって・14
看護専門職の萌芽
小野 尚香
1
1大阪大学医学部公衆衛生学教室
pp.904-907
発行日 1994年11月10日
Published Date 1994/11/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662901029
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1885年の暮れ,リチャーズ(Linda Richards)はボストン市立病院総婦長兼看護学校校長の職を辞し,日本に向かっていました。京都に初めて設立される看護婦養成学校へ赴任するためでした。
同志社を開き,医学教育も加えていくという構想をもっていた新島襄は,よりよい治療を行うために専門教育を受けた看護婦が必要であると考えていた宣教医(Medical Missionary:医療伝道を行う医師)ベリー(John C. Berry)らの協力をえて,京都看病婦学校を創設しました。明治19(1886)年9月に授業が開始されています。ベリーはまた,看護学の教育は,専門教育を受けた経験豊かな看護婦によるべきであると考えていました。
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