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公衆衛生のはじまり
日本の公衆衛生の出発点は明治7(1874)年の医制の発布に始まる。特に医制第2条で医制の定義として「医制ハスナワチ人民ノ健康ヲ保護シ,疾病ヲ療治シ,オヨビ,ソノ学ヲ興隆スル所以ノ事務トス」と述べている。これは米欧の医事制度を調べるため,1871年岩倉具視を特命全権公使として48人の欧米視察団の一員として参加した長与専斎が帰国後,医務局長として医制76条を完成したものである。公衆衛生という用語は当時イギリスが1848年に世界最初の公衆衛生法としてすでに制定していたが,日本は1868年に従来の漢方に代えて西洋医学の採用の方針を採用し,明治3(1870)年にドイツ医学の採用を決定した。長与専斎は欧米の調査の際にドイツのGesundheitpflegeという言葉を気にとめ,それはただの「健康の保護」というだけの意味ではなく,国民の健康の保護を受け持つ政府の組織としての意味を持つものであることを理解し,医師としての生涯をかけた事業としてやりとげようと志したという。公衆衛生という用語よりも,長与専斎が「荘子」の中からとり出した「衛生」という言葉が,公用語として医制以来登場した。
公衆衛生という用語は英米流の民衆や地域社会での行動に立場を置いた認識と表現である。大正5,6年のロックフェラー財団が日本の4人の医学者を招いて実情の調査する機会をつくり,その後大正14(1925)年の日本公衆保健協会の誕生や,昭和10(1935)年以後のロックフェラー財団の寄贈によって創設された国立公衆衛生院とその現地実習機関として東京の京橋,埼玉の所沢の2か所に設けられた都市と農村保健館の発足が大きな機会となり,昭和12年に保健所法が制定された背景として記憶すべきであろう。
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