特集 看護制度10周年を記念して
私の記録
歴史部会第21回報告
田中 久仁子
pp.23-25
発行日 1958年7月10日
Published Date 1958/7/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662201679
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大正2年2月10日,桂内閣不信任の民衆暴動で新聞社,警察署に焼打ちが行われ,「今,八丁堀の交番に火がついた」と言う時に,京橋区鍛冶町12番地で私は生れた.幼児期に長姉が腸結核で2,3年患つて死亡しこの姉が感染源となり,兄の淋巴腺結核,私の発病となつている.小学校は浅草小島小学校で2年生の時スペイン風邪が流行し,黒いマスクをかけて登校し,同級生関係者間に死亡者が多く出た.上野に平和博覧会があつたり,英国の皇太子が来朝し日の丸で出迎えたり,学校では改良服が流行して,浅草の子供は髪を"かつら下地"(桃われのひくいもの)に,その改良服を着て妙に新しがつた.家では,両親が他人の面倒をよくみる人で常に,家族以外の人が何人か,家にいた事を記億する.5年生の二学期始業式から,帰宅し昼食後に関東大震火災があり,地震,火事,朝鮮人事件(と言われて労働組合幹部の集団やく殺)等,続いて,甘粕事件.浅草区役所の焼失で戸籍原簿に間違いが生じたか,お蔭で私の誕生日は,それ以後,2月18日となり,名前も,久二子が久仁子と改まつていることを後で知つた.小学校5年生までとそのあと震災後は誕生日と名前がちがう妙なことである.
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