東西詞華集
城ヶ島の雨—北原白秋
長谷川 泉
pp.44-45
発行日 1951年10月10日
Published Date 1951/10/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1662200161
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北原白秋の名前が今日多くの人々の間に親しまれているのには三つの意味がある。詩人としての白秋はもとよりのことであるが,そのほかに民謡や童謠の作者としての白秋,および歌人としての白秋がそれである。日本の近代詩のうえで驚くべき多産な,そして天才的な才華のあらわれが,この三つの方向に流露したものであつて,その詩樂器の音色は同じ強さで平行してかなでられたものではなく,段階的なものであつた。即ち先ず詩人として,次には民謠や童謠作家として,最後には歌人白秋としてのあらわれ方をしたのである。そのような多彩な變化が,彼に40年の永きにわたつて不朽の詩的生涯を與えた原因であろう。
白秋の聲名を詩人として定着したのは自費出版の處女詩集「邪宗門」(明治42年)であつた。ダンテの神曲地獄篇の有名な文句にまねた「ここ過ぎて曲節の惱みのむれに…」という「邪宗門扉銘」のなかにも,その抱負の一端が見られるように青年白秋は若い情熱と燃えるような野心そしてまた鏤骨の精進を,この「邪宗門」にかけていた。後年彼が當時を回顧して「時代を劃するほどの處女詩集でなければ世に問ふものではないと思つた」と言つているのは,彼が如何に期待をもつて「邪宗門」を世におくつたかを物語つて余りある。そして「邪宗門」のもつ南蠻紅毛趣味は一世を風靡したのであつた。
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