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最も根本的なところでは,看護婦としての私の眼は,看護婦として以外に生きている部分の私の眼を反映しているものと言えるし,またその逆の場合もあり得る.ここでは,自分の行う看護に行き詰まりを感じたことが契機となって,自己のもつある一面を見つめ直す機会を得た後に,次第にその行き詰まりから脱け出そうと努力している様子を述べたつもりである.
新卒のころは,業務をこなせるようになることが要求された.限られた人員で毎日必ず行っていかなければならない業務は多くあるし,緊急を要することも多い.学生時代には触れてみたこともないような医療器具も使いこなしながら,患者を観察し援助していかなければならない.そんな中で,行う内容を理解することよりも,先輩の行動を見よう見まねで形を整えることに精いっぱいになりがちだった.
(この辺のところは,看護婦として以外に生きている私の眼が反映しているとも思う.なぜなら,こういう状況の中でも,確実に看護をしていった人びとも多くいると思われるので)
しかしそういう時でも,患者に対する自分の行為の安全性だけは念頭にあったはずである.もう一歩進んで,患者自身に真に注意力を向けるという,より深い安全性や安楽を吟味しようとする態度を身につける前に,これならば安全だという既成のモノサシで見ようとする.業務から自分を守るのに最も安全な方法として,型にはまった見方をし,計測を過信するようになってしまう,ということだったのではないかと思えてくる.
型にはまった見方の最も大ざっぱな例として,私は看護婦だ,あなたは患者だ,だからお互いに……しなければならないという見方は,看護をする側が業務をこなすための手短な逃げ道といえるのではないだろうか.
過日,ある看護の大先輩の講演で,看護をする側がされる側の生活の場に入って行って援助をする時には,援助される側に添うところからしか始まらないというような話をされた.私の行った看護は正にこれと反対のものであり,病院という施設内しか知らず,施設の規則──これもどこまでがどうしても規則として守らなければならなかったものなのか不明確だが──や,業務をこなすための逃げ道の中に,それとは意識せずに患者を当てはめようとする傾向が強かったことに思い至る.先に述べたような看護ができるようにという思いはありながら,それができなかったのはこのへんに原因がありそうである。
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