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天職(3)
小巻 元隆
pp.38-41
発行日 1955年7月15日
Published Date 1955/7/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661909872
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師範学校へ入ることを志しながら日清戦争当時,宇品港へ初めて帰つて来た傷病兵をみて,看護婦を志願した“山本ヤヲ”は制服もなくハカマをはいて,自宅から日赤の広島支部へ通つた日清戦争当時から,北清事変,日露戦争に応召したのち,明治39年の4月,日赤の本社病院の看護婦長に栄転した。この間の10年あまりは“山本ヤヲ”にとつても,まつたく無我夢中といつてよいくらい,わき目もふらずただ前進した時代だつた。母の性質をそのまま受けついだ,気性の強い“ヤヲ”は,どんなことがあつても,後退することはなかつた。楽しい思い出にくらべて,苦しい思い出も決して少なくはなかつた。日露戦争で,はじめて病院船に勤務したとき,また看護のかいもなく,兵士の尊い生命が失われてゆくとき,それらは“ヤヲ”の頭に1ツ1ツ深くきざみこまれていた。やがて“ヤヲ”は明治45年,日本の看護婦を代表して,ドイツのケルンで開かれた,万国赤十字看護婦総会に出席したのち,フランスやイギリスなど,各国の病院を視察した。“ヤヲ”は日本のそれとくらべて,学ぶところが多かつたと共に,日本へ帰つたら,ああしよう,こうしようという事で,頭が一杯であつた。ついで大正10年の4月,“ヤヲ”は看護婦最高の名誉である,ナイチンゲール賞をうけたのであつた。
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