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婦長さん物語(第1話)
関口 修
pp.171-174
発行日 1954年4月15日
Published Date 1954/4/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661909567
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木立にかこまれた丘の上—病院の横の麦畑はよく打ち返されていると見え,青々と葉を繁らしている。婦長の山本さんはカルテの整理が済むと,例によつて窓の方へ顏を向けた。窓の下は小さな公園になつていて,今日のように暖かい日には,アベツクの散歩が多い。男の多くは肩から写真機をさげ,女は服や靴は新調でなくても,手提げだけは大抵流行を追つている。そしてその人達は,きまつて石段の中途や鳥居の前でいろいろのポーズで,思い出の中にどんな風に自分を置くかを苦心して写真をとる。こうした群を見馴れてはいるが,山本さんはいつも憂うつを感じる。憂うつといつても,独り者の憂うつというわけではない。山本さんだつて結婚しようと思えば明日にでも出来る。それよりも石垣の下に咲いている春蘭の群が,時々踏み荒されるのが憂うつの種なのだ。これらの人達は十人が十人何の気なしに崖上の病院を見上げる。そして山本さんの姿を見ても,何の意識もないように帰つてゆく。つまり山本さんを空気の存在ぐらいにしか思わないのだろう。山本さん自身も空気のようなつもりで満足しているらしい。だから時に手を振つて挨拶めいた真似をされると,山本さんはきまりきつて御気嫌が悪い。
山本さんは37だが,怒り肩なのと化粧嫌いなので,40を越した年配に見られる。もつとも28で結婚して30でその夫に死なれ,それから女1人の手で子供を育てあげた苦労も手伝つている。
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