連載小説
三つの輪(第7回)
関口 修
pp.45-48
発行日 1953年10月15日
Published Date 1953/10/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661909427
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(12)竹とんぼ
往診から帰つた院長が,鞄を宏子に渡して廊下にさしかかつた時だつた。窓の外で龍子の笑い声がしたので,、ガラス越しに視線を向けると,垣根の向うに佇んでいるのは近所の唖の子供だつた。龍子は院長が見ているのに気がつかず,時々首を傾けては空を指さしたり,自分の鼻の頭を叩いたりして,妙な身ぶり手真似で子供と話している樣子だつたが,そのうちいつさんに,中庭の方へ走つていつた。そして枝折戸の所で子供からナイフと竹片を受けとると,石燈籠に身を寄せかけてその竹片を削りはじめた。その前にかがんだ子供は,冷えびえとした庭の土に小魚のように散る竹屑を,さもたのしげに見入つている。そして時々目を挙げては龍子に笑いかけた—生れつき言葉というものを知らない不幸の子の笑顔には,清らかなよろこびの色がかがやいていた。龍子はそれに答えるようにかるく頷いては,いつしんにナイフを動かしていた。靜かな庭に佇む白衣の乙女と唖の子の姿は,絵でありまた詩でもあつた。
もともと元気な龍子である。3,4日前のことだつた。往診先の院長に急用の連絡をしに自転車を飛ばしすぎて,いきなり道に投げだされた時,通りがかりの青年達からからかわれて思わずカツとなり,「今どき,エチケットを知らない人達ね…」そう怒鳴つてやつたらコソコソ逃げちやつたの。
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