発行日 1951年1月15日
Published Date 1951/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906782
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病院 は言うまでもなく病氣に對して處置する所であるが,子供の場合特に「病氣さえ癒ればいいのだ」と云うのでは不幸であり不具に等しいと思う。何故なら子供はどんな時でもすべて成長しつゝある。病氣中は入院中は,或一面は休業だなんて言うことはないのだがら。
私が子供の頃と云つても女學校へ入學したばかりの頃病院と云う所へ獨りで通つたことがある。内科の待合室でしばらく待つて居るのであるが時々咳嗽をして顔色の青い痩せた男の人,あの人はきつと肺病なのだろう。彼が私の側へ坐り來たら如何にしよう。こつちの骨と皮ばかりのガンジーの様に皮膚の青黒い老人はきつと癌と云うのかも知れない。そして氣の毒に死ぬのも近いのかも知れない。あつちの寒そうなおばさんは,今日拂うお金を持つているがしらなど必要以上變に病氣のことばかり考えをめぐらし體を硬くして,自分の番を待つていたものだつた。病院に通わねばならないのは病氣になつたらしいから體内のことの解る特權者である醫師に檢べて貰う必要がある。そして彼がかうすれば治ると云う注意と,與えられた藥とにある種の信仰の樣なものを持つ義務を感じて「醫師の云うことを守ります。苦い藥は私に良く效きます」。と自分の心に自分で云い聞かせていた様に思う。そして自分は餘り素直でないから早く病無が治らないのだ,と本當に考えていたものだつた。
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