この人を見る・2
内にひそめる情熱と理智—聖路加の湯槇か湯槇の聖路加か
主觀客觀
pp.46-47
発行日 1950年10月15日
Published Date 1950/10/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906728
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聖路加の湯槇さんか,湯槇さんの聖路加かといわれている程,湯槇ますさんの存在は聖路加病院と,そして聖路加女子專門學校とは切つても切れない間柄にある。いゝかえれば,湯槇さんの看護婦としての生活は門外不出,聖路加に終始つながつている。
大正13年に聖路加を卒業した女史は,その2年後,大正15年にはロツクフエラーのスカラーシツプでアメリカに留學し,ボストンに於いて麻醉術を研究した。歸朝後は手術場の婦長として活躍,又植田總婦長の補佐役もこなしながら,昭和12年5月ロンドンに開かれた国際看護婦協曾第8回總會に日本看護婦代表として井上なつゑ女史と共に出席した。歸國後,昭和14年に植田婦長の奇禍によつてその後を繼いで總婦長の要職につき,2年後にはアメリカ人教務主任の歸国に際し,教育の責任者としてのバトンを讓り受け,看護教育に專心した。昭和18年には長谷川總婦長の辞職に伴い,病院の監督にも責任を持ち,總婦長を兼任,終戰に到るまで病院に於いて,學校に於いて想像もつかない樣な働きをした。終戰時,病院の解散,學校の日赤への委託と共にすべての職から去つて約半年,田舍に於いて悠々自適の時を過した。しかし日本の看護界は女史を田舍に朽ちさせなかつた。再々の懇請もだし難く上京,又改めて教務主任の要職に戻り,昭和23年の秋に終戰後ナースとして始めての留學生として選ばれて再度アメリカに渡りトロント大學に於いて看護教育を修めた。そのまえにアメリカから來朝の前教務主任であつたミス・ホワイトと共に看護教育の權威者として今日に到つている。その他,厚生省の顧問,三協會の副會長等々,看護婦界の重鎭としてなくてはならない人である。
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