発行日 1949年1月15日
Published Date 1949/1/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906415
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私が大阪に家庭もあり事業もしてゐるのに急に東京に來るやうになつたのは7月のはじめで,いよいよ7月15日に看護課が厚生省の醫務局の中に新設され私が就任したのは7月の末の事であつた。
「同志社女子專門學校の教授の職も古靴のやうに捨て樂しい家,親しい家族を殘して不自由な生活に道を撰んだ母の心理が不可解だ」とは我が子のみならず。多くの人の中には同じやうな思ひを持つて居らるゝ方々もある事と思う。「17歳とは云へ,世界は自分の爲に作られたやうに考へ,やがて砂漠も荒波も足元に近づく日を思はぬお前もいつか東京に來た母の眞情を知る日がある」とたゞ答へた私であつた。私が東京に,然も看護課長として來たのは,日本の保健婦,助産婦,看護婦が其の業務の本來の精神をしつかりつかんで各自の働に生かして,人間の幸福の爲に,日本民族の福利の爲に直接間接,御奉公の出來るやうに其の水先案内と云ふか挺身隊の一員と云へようか,ともかく長い日本の看護歴史の上から見ても世界の國々に百年以上も遲れてゐる現状の打開と正しい基礎工事の建設の爲,捨石になるべく使命を感じての事以外に何物も私は考へてゐない。
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