発行日 1947年11月15日
Published Date 1947/11/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661906261
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人は誰でも讀書をしなくてはならないとは,今にはじまつた常識でない。けれども世の中には,いはゆる讀書家といはれて,一種輕蔑の心持をもつて呼ばれる人々がゐる。讀書家とは本をたくさんよむ人のことである。たくさん本をよむならば尊敬されるべきがほんたうのやうに思はれるが,さうでないのはどういふ理由になるのであらうか。元來本は人の肥沃として存在の理由があるのであつて,本をよんだならば,それがよんだ人間の知識となり或は行動に移されるところに意味をもつのである。つまり,消化されて,人間活動及び發展の要素と化すべきものである。ところが,讀書家といふのは讀む活動丈の多いことを指してゐるのであつて,應用の域には及んでゐない。本の中に遊んでその知識の斷片を集積して終ることを意味してゐる丈である。
讀書の價値が高調きれる時には,單なる本讀みを意味しない。人間の知的,文化的な向上の鍵としての役がはつきり意識されてゐるのである。考へてみるに,讀むといふことは,語り合ふこと,見ること以上に,本質的に人間の教養にとつて大切である。人間として,衰へさせないことはその心持の衰へないことを意味してをり,それは精神生活の豐かになつてゆくこと以外にない。つまり讀書によつて,内部にも生活を持つてゆくことである。たとへば,もし,文藝作品をよんで,それにひどく感動したとすれば,そい人間の頭と情緒生活に樣々な營みが行はれる。
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