巻頭グラフ この時この一葉[最終回]
災害看護ことはじめ
山根 信子
1
,
高尾 翠
1看護史研究会
pp.1078-1079
発行日 2000年12月1日
Published Date 2000/12/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1661903603
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1935(昭和10)年6月27日,豪雨による筑後川の氾濫で,久留米一帯は水害に見舞われた.写真の久留米大学医学部附属病院周辺も,多くの地域で被害が生じ,ボートを用いた災害救助活動が行なわれた.当時の記録には,「29日までの雨量は280ミリに達し,河川氾濫し,学校一帯は見渡す限りの湖海と化した」とある1).
しかし,この状況下でも入院患者311名中1人の行方不明者,死亡者も出さなかったということから,ナースらの奮闘ぶりがうかがわれる.当時のナースの手記には「1階は水浸しであったので1階の患者さんを担架で2階に運んだり,諸器具を2階に運んだりと慌だしい状態が約1週間続き,食事もおにぎりとたくあん2切れという日が続いた」とある.また,ナースの寄宿舎も出入りは2階からとなり,病院と宿舎の間をボートで往復することを強いられたが,「10代と若く,またはじめての体験であったので,ボートでの往復が楽しく感じられた」と,写真のナースは語っている.
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