特集 助産婦として生きる
開業助産婦として働く私の喜び
母子の幸福を願って飛びまわる日々
鈴木 秀子
1,2
1のぞみ助産院
2前:国立相模原病院
pp.40-43
発行日 1984年1月25日
Published Date 1984/1/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611206380
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なすべきことはなした病院時代
病院助産婦時代,私は非常に卑屈だったような気がします。給料日になると,いつもがっかりして考えこんでしまっていました。35歳ぐらいの時でしたか,婦長が若年の医師の初任給よりも安く17〜18万円ぐらいでした。全神経をすり減らして働き,その代償かと思うと力が抜けました。いっそボランティアのほうが気持ちが休まるとさえ思ったものです。業務が繁雑で,細分化されすぎていて,母性との共感の場が少なく,仕事のやりがいを身近かに感じることも少なく,自分の力を十分発揮できないもどかしさで苦しい思いをしていました。それでも大きな病院としての役割や必要性は理解していましたので,いろいろなことを即実行しました。
まず入院のお母さん達に喜んでもらえる仕事をするためにも,働くわれわれの意見が堂々と言えるところが欲しいと思い,労働組合を結成し最初に保育園を作りました。病院から昔の看護宿舎を2室借り受け,清掃をし,畳を換え,私物をもちこんで,6人の園児のために2名の保母を雇いました。時には私たちも年休で保母代行をやったり,厚生省に行って院内保育園を認めてください,保母の人件費を予算化してくださいと請願して,ようやく予算化してもらうということもしました。その後保育園は内容が充実して,看護婦さんたちは出産後も働きつづける人が増え,看護の質はその量とともに向上してきました。
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