グラフ解説
賀川玄悦と賀川流産科
杉立 義一
1,2
1京都市杉立医院
2日本医史学会
pp.484-489
発行日 1983年6月25日
Published Date 1983/6/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611206253
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賀川玄悦以前
18世紀の産科学がどんな状態であったか,文献によって探ってみるに『中条流産科全書』(1668)は,それまでの産科書がたんに薬湯のみに頼っていたのにくらべ,若干の外科的処置を述べているが,たとえば「子足ヲ出シ生レ兼ルニハ藍の実ヲ水ニタテ出シタル所ニヌリ母ノ帯ヲトキ本味ノ内芍薬川芎ヲ用ユベシ,同片足ヲ出ストキハ母ヲ横ニ寝サセイゲミヲ止メテ子ノ足ノウラニ握薬ヲ付ケ松葉ニテシカシカサセバ足ヲ引クナリ……モシ子死タル時ハクサリ薬ヲ以テ療治ス」という程度であって,科学的根拠に乏しい。香月牛山の著わした『婦人寿草』(1692)は,中国医書から抜粋した養生法であって,具体的産科処置にはふれていない。玄悦よりはるかに時代の下がった人である奥州白川の蛭田克明は,蛭田流産科といわれるほどの名医であったが,その著書『産科新編』(1819)のなかで,一生のうちで骨盤位分娩60例を経験したが,生児を得たのはたったの1例のみであったと告白している。
中世以前はいうを俟たず,江戸時代においても,女性がお産に臨むということは,死と直面することであった。いかに多くの母児の生命が,いわゆる周産期において失われたことであろう。しかも当時は,お産は汚穢なものとの観念が支配的であって,一般庶民は土間の一隅に藁を敷いて,熟練した介助者もないままで坐産をするというのが実状であった。
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