今月の言葉
名古屋に見た助産婦のあり方
所沢 綾子
pp.6-11
発行日 1959年9月1日
Published Date 1959/9/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611201746
- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
それぞれの土地には,それぞれの土地にあつた花が咲く,都会には都会むきの,山村には山村むきに喜ばれる花を咲かさなければならない.助産院のあり方も,その土地,土地によつてそれぞれの特徴がある,しかし出産数が減少して,病院分娩が増加して,うかうかしていては助産所の経営は困難になるというこの傾向は,農村も都会もいまや一般的普偏的な問題となつた.ただ都会の方が,住宅難等の事情によつてその傾向がはやく現われたに過ぎない.農山村も衛生思想が高まるにつれて,母体が安心して休むことのできる施設分娩が喜ばれるようになつてきた.だから助産所のあり方や経営について本気で考えることは日本のどこに住む助産婦にとつても必要な一般的問題となつたわけである.半年程前,私は大阪府のいくつかの助産院めぐりをして,大阪の助産婦はこの傾向にどう対処しているかを本誌で紹介したことがあつた.大阪の助産婦は,あの大阪商人の持つ「土性骨」を見事に助産院経営のなかに反映していた.「お客様はお産の為に入所させるとはよう言うてくれへん.やつぱり入院させると言うてほしい」ということで,厚生省に何度もかけ合つて「助産所」から「助産院」の名称を獲得したのも,大阪助産院会の人々であつた.「助け合い運動」をおこして,暇な助産婦が,忙しい助産院の手伝いをするパートタイム制も半年前に進みかけていた.そして大阪の場合,繁昌している助産院の条件として次のような点が浮び上つて来た.
Copyright © 1959, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.