手紙
注射器を持てぬ悲しさについて
一色 ヤエ子
pp.46-47
発行日 1953年6月1日
Published Date 1953/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611200371
- 有料閲覧
- 文献概要
公然と注射器が持てない悲しさは私達はいつも痛感している一人である。助産婦とはその樣に信用のない者であろうかと時々必要を感じた時など寂しくたつて来る。田舍に入れば入る程お産の時に医師を迎る事を嫌う樣子がはげしい。分娩第2期に至て陣痛徴弱を起した時など1本の注射が怨めしくなる。医師を迎えて注射して医師が自分の持物を仕末が出来るか否かに玉の様な赤ん坊を産む事はたびたびである。こんな時公然と助産婦に注射が認められたらと思い,注射はどの樣な時に,どの樣な場合に,どの樣にして,位は最早現在の助産婦は知らない人は1人もあるまいと思うが?……而しこの高松さんの場合は又別である。現在の助産婦事業は,正常分娩の介助であつて異常は明らかに医師の分野である。從つて正常分娩においては何等人工的処置を加る必要がない。だから昔は取上婆で事たれりと云う事が出来るのである。異常があつてこそ眞に助産婦の價値がわかるのである。医学的に見て完全なる消毒並に母子の異常を早く発見してこれを正常分娩に至らしむ樣最善の処置をなすことこそ助産婦として社会的に認められる一つの事実ではないでしようか。此の世の中に何が尊いと申しても人間の生命程大切なものは他にない。
Copyright © 1953, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.