日記の一頁
思い出すまゝに
原田 靜江
pp.48-49
発行日 1952年2月1日
Published Date 1952/2/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1611200044
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私と柘植先生と同じ濱田玄達先生の濱田産婆學校に學びました。入學試驗のとき作文に産婆を志望した譯を書きました。14才を頭に4人の弟妹をのこして,母はお産で此の世を去りました。母なき我家の淋しさをしみじみと味いました私は何んとかして此の樣な不幸な家庭を少しでもなくする爲め自分は産婆となつて母體の死亡率を少なく出來ればと思い立ちました事を書いたのでした。む蔭で卒業後47年に成りますが,自分の體驗では1人の母親をも死なせずに過して參りました。
終戰後オルト女史が來日され,日本看護協會が川來ます時,井上なつゑ先生,湯槇先生,平井先生が宅に見えられて,今日司令部より力呼出しがあつて行つて來た所,助産婦からも來る樣うと申されたからとおつしやいまして,私をおさそい下さいましたのでご座いますが,私は其の器でないと存じまして,早速市川いし先生の所に來りお相談し,先生を部會長に立て私は副部會長として市川先生に代つて大谷部會長の下でも副部會長として勤めさせて頂きました。
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