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茶道では「出藍(しゅつらん)のほまれ」はまずないといわれている.茶道の心は「茶禅一味(さぜんいちみ)」とか「和敬清寂(わけいせいじゃく)」で表現されている.これらの言葉を一つ一つ深く味わって行くと興味深い.一般に人から物を教えられる場合ただ「聞く」だけでは,教示内容の30%しか理解できないといわれ,また「聞く」と同時に「見る」ことにより65%,さらに「聞く」,「見る」また「行ってみる」ことにより95%を理解できるという.つまり「正しい理論」を理解し,同時に「身体で覚える」ことが如何に大切であるかが分るのである.茶道では入門につづき,小習(こならい)が「けいこ動作」の第一歩になる.「良き師」はここで徹底的に「心がまえ」と正しい姿勢の保持,諸動作,道具の扱いなどの「手順(点前)」を「正しい理論」により教え込んでいく.すなわち「条件づけ」するのである.初めは目のfeed backにより,手・足の動作を「条件づけ」していく.当初は一つ一つの動作をいちいち頭の中で考え,目で動作を追っているが,馴れるに従って,考えなくても自然に手・足の動作が可能となり,遂には目のfeed backによらなくても,点前が完全にできるようになる.すなわち「条件づけ」が完成するわけである.世にいう名人芸とはこの「条件反射」が完成された状態であるとも考えられる.身体で覚え一度身についたことは決して忘れられないし,また反面その修正も困難となる.つまり「習い性となる」わけで,いいかげんな師匠につき,いいかげんな教育をうけていると,結果的には全く不幸に終るということである.これと同じことがリハビリテーション医学のスタッフの教育にもあてはまると思われるのである.学校教育をうけ,卒業後初めて社会に旅立った時,最初の勤務先が設備の完備し,高給で比較的軽症例をしかも少数例しか取扱わない施設または病院で,この「条件づけ」が完成すると,不十分な設備,安価な給与,さらに多数の重症例を取扱わねばならないところに転任した場合,全てに不平,不満が絶えないであろう.この逆の場合には何と楽でいいなと思うことであろう.すなわち最初の教育の如何によって,その人のその後の人生が決定するといっても過言ではない.私の経験によれば,若い間にできる限りいろいろの面で自分自身苦労し,多くの症例に接して,その個々の症例について,全て身体で覚えておいた方が,将来大いに役に立つように思う.
さて多くの人達にお茶を振舞う「施茶釜(せちゃがま)」では,主催者側にはお客の「取捨選択(しゅしゃせんたく)」は許されない.何人お客がこられようとも,客人それぞれ「心身」ともに満足して戴けるように,そのときどきの全知識と技術の限りを集結して,心からの奉仕をする.この場合師匠と弟子およびお客との間の「和敬清寂」の心のきずなが大切である.リハビリテーション医学でも同様で,スタッフは障害者から求められれば,これを拒絶したり,症例を自分の都合のよいように選択することを厳に慎むぺきであろう.まずスタッフ一同が協力して「行ってみる」ことが大切なので,最初から頭の中で,あれこれと都合よく考えて,あれもいけないこれもだめとカットして行く態度はよくないと思う.「教育の大切さ」については,教育機関に従事している教育者自身よりも,地域社会で実際に臨床的に活躍しているリハビリテーション・スタッフの方が,案外,「より切実」に感じているのではなかろうかと思われるのである.
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