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はじめに
つい先ごろある会合で,就任して間もない精神薄弱者福祉司から,つぎのような悩みをきかされた.「精神薄弱者福祉司の仕事は,一生懸命やろうとすればするほどジレンマにおちいってぬきさしならなくなる.身体障害者福祉と比べても施策内容が不備で,施設入所の仕事をのぞくとほとんど何も手だてがないといってよい.施設はどこも満床の状態である.その施設入所も,どれだけ熱心に施設に顔つなぎをするかにかかっている.在宅障害者の実態を知れば知るほどこわくなってくる.ともかくも八方ふさがりのなかで,必死になって光明をみいだしているようなものだ.」というのである.
障害が重ければ重いほど,ましてや重複障害であれば一層のことである.
昭和25年施行された身体障害者福祉法は,傷痍軍人援護行政が終戦により廃止されたため,傷痍軍人を中心として運動がひろがり制定されるきっかけとなったものである1).対象はもちろん一般身体障害者も含むものではあるが,法の目的が身体障害者の更生を目的としており,身体障害者が自らすすんでその障害を克服して,すみやかに社会経済活動に参加するように努力すべきことが基本理念としてかかげられている.したがって,重度・重症といわれる障害者は当然のように,この法から欠落していた.
そして,精神薄弱者福祉法は,昭和35年にいたってはじめて施行されたものであるが,そこでも同様に重度者はとりのこされた.
このように,障害者立法の趣旨は,更生可能で労働力として有効であるかどうかという資本の論理にもとづいたものといえる.このことは,次の記事に端的に示されているといってよい.
昭和40年6月24日に内閣総理大臣の発表によって発足した社会開発懇談会で,「I教授は専門の経済学の立場から“身体障害者の放置は国家のゆゆしきロスだ”と説く.つまり軽症者の場合は,リハビリテーション・センターの設置によって新たな労働力を吸収できるし,重症者であっても,施設に収容することによって,親・兄弟の生産力を社会に還元できるという理論だ.……国立視力センターの設置以来,失明者3000人の職業訓練を行ったが,自立することによって年間約2億円の生活保護をうかすことができた……」(「読売新聞」昭和42年9月9日)2)という発言がみられる.
重度・重症児者対策は,昭和38年にはじめて療育費補助がみとめられ,昭和42年に児童福祉法の改正が行われ,重症心身障害児施設が認められた.そして,昭和45年に心身障害者対策基本法において,11条に重度心身障害者の保護が明記された.国の施策は決定的にたちおくれており,すべてが家族の負担でしのがされていたのである.このような状況のなかで,障害者にかかわる心中・自殺・殺人・事故死などは,昭和26年から昭和46年までの20年間だけでも880件をこえる.実に8日に1件の割でおきているという3).
国の施策のたちおくれは,当然に地方自治体における障害者要求としてたかまっていく.東京においては,障害別・階層別・組織別をのりこえて,「権利としての障害者運動が組織されたのは,昭和41年であるといわれている.そして,10年の運動の成果は,障害者福祉予算について昭和40年を1とすると,昭和49年度は16倍にもなっている」4)
そして,昭和48年以降各地域で障害者の運動が本格的に組織されていった.私達が地域の障害者運動にとりくんでいったのも,この時期にあたる.ここでは,福祉の現業の立場にあり,かつ地域の障害者運動にかかわるなかでとらえた目黒区における障害者福祉行政の問題を検討してみたい.
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