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はじめに
子供の将来の見透しがたたないということが障害児の親たちのいちばんの悩みであるが,教育にとってもいちばん根本の問題点であろう.子供が小さい間はリハビリが目覚しい成果を挙げることを期待するので将来への不安はある程度ボカされ弱められているが,養護学校の高学年ともなればどの程度の障害者かはハッキリするし,その障害程度がもはや著しくは改善されまいという見当もつく.そういう状況をふまえて,軽ければ軽いなりに重ければ重いなりにお先まっ暗なのである.
子供が大人になるときには健常児の親もそれぞれに心配や不安はあるだろう.私は健康な子供を持たないから体験的には解らないが,自立して職業を持ち家庭を持ち社会生活を営むという路線をしあわせに歩けるだろうかという不安であろう.つまり子供の将来の生活路線あるいはコースは,具体的ななかみはさまざまでその選択が生涯の大問題であるにしても,抽象的一般的には明確に存在しており,教育の態勢もこれを前提にして組むことができるわけである.
ところが障害児にはこの路線は通用しない.すくなくともそのままでは通用しないのであって,社会問題としての障害者問題はこの路線が通用しないあるいは通用しにくいところに発生するものと言えよう.とくに養護学校の子供ともなればこの路線を歩むことは著しく困難かもしくは不可能である(軽障児は普通校の特殊学級に入れるか普通学級で留意して教育するという基本方針は合理的であり,養護学校でそちらにゆけるまでに回復した者もそちらに移すべきであろう).しかし現在はそれ以外の路線はない.現在の社会は1人1人のこの路線の総合体なのだから,この路線に乗れない人間は社会からハミ出る外ないのである.
教育の基本が人間形成にあるとすれば,このような状況のもとに置かれた障害児とくに重障児の人間形成とはどういうことであろうか.社会の一員としての人間のあり方を学校生活のなかで学びとり身につけたとしても,肝心の社会が彼に人間として生きる途を認めなければ結局は宗教にたよるか安楽死でも考える外なかろう.もっともこの状況はさいきん変ろうとしてはいる.しかしその変ろうとする方向に必ずしも歓迎できないものを含んでいるのは,基本的には現状が人間社会本来の姿だと前堤してそのゆきすぎを是正するために障害者福祉を考えるという姿勢があるからであろう.具体的には自力で生活費を稼げない者も見殺しにせず社会が助けてやるということである.この考え方は福祉思想としてほんものでないように私には思われる.人間の社会生活では社会のために何らかの役に立つ,あるいはその努力をすることが社会のなかに生きる基本条件だというのが普遍原則で,この原則になら障害者もついてゆける.何らかの仕事はできるであろうし,そうでなくても障害をうけた心身に残された能力をフルに引出したい開発してほしいというのが本人や親の痛切な願いでもある.とくにこの原則で重要なことは障害者は始めから疎外されていないことである.したがって自活能力を欠く者を一たん疎外した上で改めて中に入れるという現在のゆき方(時間的には同時でも考え方としては分離している)とは根本的に異なっておりむしろこれへの対立物として想定しうるものであろう.現実がこの原則を認めないなら周囲の人々が障害者と力を協せてこのような世界を彼の周囲にきずきこれをまず地域におし拡げてゆくしかあるまい.障害者の教育は障害者の将来を創りだしてゆくことと併行してなされるのでなければ目標が定まらないのではないか.
具体的にはまず障害者を中心とする集団生活と労働の場を設定することである(拙稿「リハビリテーション行政批判」(2);本誌1巻2号p.70参照),これを「施設」とよぶならばその内容はいろいろの条件や状況に応じて多種多様であり障害が重くなるにつれてその意義も重要になるであろうが,これを全く必要としない者は障害者のなかで以外と少数であろう.だから「障害者を地域で支える」揚合にもこのような施設(的なもの)は必要である.ともあれそれらは関係者がその要求に沿って主体的に創ってゆかねばならないものであるが,そのなかでの障害者の在り方の基本(したがってその教育の基本)についての親の願いを,かつて京都府が私の居住地に初めての養護学校を創ってくれたことを承けて私の所属する乙訓(おとくに)障害児父母の会(旧称は乙訓肢体不自由児父母の会)は次のように表明している.その住むところが施設であれどこであれ,人間とはどういうものか人間らしく生きるとはどういうことか人間にとって尊いもの美しいもの正しいものとは何かを理解し感じとることのできる一人の人間として,私達は私達の障害をもつ子供を生きさせてやりたいのです.それが子供に欣びをもたらすにせよ悲しみをもたらすにせよ,これが私達親のつとめです,責任です」(同会編『障害児のしあわせをもとめて』昭43.7.p.48-6).そしてこの親のつとめ・責任という言葉にはまず親がそのような人間になる努力をせねばならないという自己反省を含んでいる.重障者の扱いについては「その日を楽しく」という考え方がまだ根強いがそれでは人間らしい生き方にはならず教育することも無意味であろう.人間的なようで実は怠惰・無責任な姿勢だと思う.
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