- 有料閲覧
- 文献概要
昭和41年に発表された遠藤周作の『沈黙』(新潮社)は,先師フェレイラが棄教したという事の真相を探るために日本への潜伏を企てた若き司祭ロドリゴを主人公にした作品である.しかし,当時の切支丹に対する苛酷な弾圧のなか,長崎奉行所に捕えられた彼は,処刑を間近かに控えた夜,牢の中で奇妙な声を聞く.それは,二匹の犬が争うような唸り声で,ロドリゴは最初,酒を飲んで眠りこけている牢番の鼾の音かと思った.「あの高く低く唸っている愚鈍な鼾,無知な者は死の恐怖を感じない.ああして豚のようによく眠り,大きな口をあけて鼾をかくことができる.眠りこけている番人の顔が眼に見えるようである」.ロドリゴは,死を前にして自分が闇のなかで胸を締めつけられるような感情を味わっているというのに,別の人間が呑気な鼾をかいているということが,滑稽にも俗悪にも思えて,止めさせようとする.
しかし,それは牢番の鼾ではなく,穴吊りにされた信徒たちの声だった.ロドリゴが闇のなかにしゃがみこんでいる間,逆さ吊りにされた信者たちは,鼻と口から血を流しながら息もたえだえに呻いていたのである.それを知ったロドリゴは,キリストのことを思い浮かべながら,「自分だけがこの夜あの人と同じように苦しんでいるのだと傲慢にも信じていた.だが自分よりももっとあの人のために苦痛を受けている者がすぐそばにいたのである」と,その声を俗悪と思って黙らせようとした自らの傲慢さに思い至る.そしてその直後,彼よりも先に棄教したフェレイラから,「あの信徒たちは今,お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ」,「なぜ彼等があそこまで苦しまねばならぬのか」,「お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる.苦しみから救われる」と諭されたロドリゴは,自ら教会によって裁かれることを知りながら,踏絵に足をかけるのである.
Copyright © 2005, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.