グラフ
地域中核病院としての可能性を模索する—黒部市民病院の歩みとこれからの課題
pp.99-104
発行日 1993年2月1日
Published Date 1993/2/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541900280
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黒部と言えば黒部峡谷あるいは,アーチ式で有名な黒四ダムを思い起こされる方が多いのではなかろうか.富山駅から黒部駅までJR北陸線で約30分,鉄道は日本海沿いの平野の中をゆっくりと走ってゆく.遠景の山並みは低い雲に覆われ,期待していた立山連峰の眺望はお預けとなってしまった.窓外を流れていくのはひたすらのどかな田園風景.富山平野の予想外の広さを教えられた気がした.黒部市民病院も立山がすぐ背後に迫るロケーションを想像していたのだが,着いたところは小都市の街中にある落ちついたたたずまいの病院であった.
桜井町国保直営組合立下新川厚生病院として1948年(昭和23年)に病床数72床で開院,市制施行に伴い1954年には国保黒部厚生病院と名称を変更している.その当時の診療科目は,設立時の内科,外科,耳鼻咽喉科の3科に小児科,産婦人科,皮膚泌尿器科,眼科を加えた7科で,病床数は一般病棟118床,結核病棟72床の規模であった.その後も病院の拡充は続き1969年末に総合病院の認定を受け,76年(昭和51年)4月1日には現在の名称である黒部市民病院に改称された.増床は86年に伝染14床を加えた計405床の規模で一段落したが,医療の質的充実に向けての投資は続けられ90年には高度医療棟,集中治療棟が完成,さらに高齢化へのニーズに応えて付帯事業である老人保健施設「カリエール」(50床)も同年開設され,今日に至っている.
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