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「ほづゝのあとに」を編集された看護指導者教育の第一人者日本赤十字社幹部看護婦研修所前教務部長 小林清子さん
寺島 敏子
1
1諏訪赤十字病院看護部
pp.448
発行日 1978年6月1日
Published Date 1978/6/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541206550
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信州の飯田高女を出て日赤を卒業したのが昭和9年,卒業後日赤本社の社会生で学び,その後日華事変から第二次世界大戦終末まで中国や病院船で傷病者の看護にあたられた.その頃の従軍看護婦の経験をまとめられたのが「ほづゝのあとに」(本誌494頁に書評掲載)である.読者の反響は,15-80歳まで年齢をこえたものであったときく.この貴重な体験記の中の脈々と心を打つものは何であろうか.戦争の残酷さをまざまざと見せつけられ,その中から生命の尊さを教えてくれている.
戦後,先生は昭和23年より諏訪赤十字高等看護学院の教務主任を7年,続いて諏訪赤十字病院の看護部長を8年勤められた.当時の混乱した社会情勢の中で看護の路線を築かれた第一人者である.昭和38年から日本赤十字社幹部看護婦研修所の教務部長として基礎教育と臨床看護の実践を踏まえての指導者教育に徹し,全国にたくさんの卒業生を送り出している,先生はプロフェッショナルとしての厳しさと包容力の持主であり,将来を見とおしたダイナミックでそして緻密な構想力は,私の知る限りにおいて右に出る者がない.実践を踏まえての教育者として数少ない一人でもある.全国に散らばっている知人や教え子達が折に触れ先生のところに顔をみせている.そんな時の先生は気負いもてらいももたないで,どんな人をも受け入れて下さる大きな人である.それが先生の魅力である.
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