病院長プロフイル・7
病院長のニユー・タイプ清原蕃郷氏(非現業共済組合稲田登戸病院長)
pp.16
発行日 1953年12月1日
Published Date 1953/12/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1541200735
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新宿から小田急で約30分,多摩川の鉄橋を渡るとやがて電車は,一連の丘陵の間に吸いこまれる。その丘陵の東斜面に,一見学校か寮かと思われるクリーム色の建物がいくつか松林の間に車窓から散見される。これらの建物の一部は,戦時中米国二世の再教育にあてられた所で,戦後外務省の同胞援護会の病院となり,更に24年9月非現業共済組合連合会に引とられて同会の稲田登戸病院として今日に及んだ。当初僅か20床の名ばかりの病院であつたのが,5ヵ年計画の下増築に次ぐ増築をもつて拡充整備された結果,5年目に入つた許りの今日既に285床の大病院ができ上つてしまつた。尤も病末の9割が結核であるから,結核増床の国策の波にのつた結果と云えるかも知れないが,院長清原蕃郷博士の熱意と手腕を看過する訳には行くまい。
清原先生は生粋の肥後人,斎々黌から予科を経て昭和5年熊本医大を卒業,海軍々医として人生のスタートを切られた。大河蘇の懐に抱かれた火の国熊本の産であるだけになかなか激しい気性の持主であるが,良識と人徳のヴエールに包まれて接する人に与える感じは温い。海軍では夙に頭角を表わし将来を嘱望されたが,戦時中は海軍々医学校教官,海軍省医務局々員を歴任,清原局員の名はなかなかコワイ存在であつた。
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