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■はじめに――「医療の政治学」の必要性
本号の特集テーマである「医療政策の決定プロセス」は,ある意味で非常に新しいテーマであり,このようなまとまった形で特集が組まれるのは,おそらく初めてのことではないかと思われる.
最初に若干個人的な印象を記すことをお許しいただくと,筆者は1980年代の終わりの2年間(1988~1990年)にアメリカ・ボストンにあるマサチューセッツ工科大学の政治学大学院に留学する機会をもったが,当時非常に印象的だったのは,科目の中に「公共政策 public policy」という言葉を含むものが多く,また,「政治と公共政策(Politics and Public Policy)」,「公共政策の理論(Theories of Public Policy)」,「公共政策の組織(Organization of Public Policy)」等といった科目と並んで,文字通り「政策決定プロセス(Policy-Making Process)」という講義課目が独立に存在していたことである.それは様々な政策課題について,どのようなアクター(主体)が,問題の設定 (agenda setting)から政策の企画立案,利害調整等のプロセスにかかわり,どのような意思決定や対応が図られるかを具体的な事例等をもとに分析・吟味するような内容のもので,日本ではそのような議論をほとんど聞いたことがなかったので,新鮮に思えたのである(ただし誤解のないよう記すと,私はそうしたアメリカ的な政治学のあり方が必ずしもすべてにおいて優れたものとは考えていない).
その後,こうした政策決定プロセスを含む「政策研究」の重要性ということは日本でもよく論じられるようになり,実際に近年では「公共政策」を柱に掲げる大学院も設置されるようになっている.一方,少し視点を変えて医療という分野について見ると,1990年代以降,一つには医療費の規模が大きく拡大してきたという背景もあって,医療についての政策研究というものの重要性が認識されるようになり,様々な対応が行われるようになっていった.しかしながら,医療についての政策的あるいは社会(科学)的な分析や議論の主流をなしたのは,主にその経済面に関する「医療経済学(health economics) 」的なものが中心であり,政策決定プロセスという点を含め,その「政治的」な側面についての分析はほとんど行われないまま現在に至っている.このような状況の中で,端的にいえば,「医療の政治学」がいま大きく求められる状況になっているのである注1).
ところで,政策決定プロセスという点を含めて,「医療の政治学」がこれまで正面から分析の対象となってこなかったのはなぜだろうか.一つには,医療という分野が,医療技術を中心にきわめて専門的あるいは技術的な内容をもち,社会科学者が分析の対象にしづらい面があったという点があるだろう注2).しかしそれ以上に大きかったのは,医療費が増加を続けつつも,比較的近年までは,一定以上の経済成長に支えられて,「医療費の分配」 という問題が現在ほどには深刻な形で浮上していなかった,という点が大きかったと思われる.およそ「政治」というものの一つの本質は「分配のルールを律すること」であるから注3),経済の構造的な低成長の中で,医療における「分配」問題が大きく前面に登場するという新たな状況を背景に,「医療の政治学」の必要性が高まっているのである.
以上と並んで,「医療の政治学」の重要性が大きくなっている背景として,患者あるいは医療消費者を含む,「アクター(あるいはステークホルダー 〔利害関係者〕)の多元化」という点が挙げられるだろう.後にも触れるように,これまでの医療政策は,圧倒的に「提供者(あるいは供給サイド)中心」に展開してきたため,ごく限られた関係当事者(医師会を中心とする医療従事者,厚生労働省,政治家等)の間で政策決定が行われ,その限りにおいて比較的単純で一元的な構造が支配的となっていた.近年になって,患者や医療消費者の立場やその主張が医療政策における重要な要素として認識されるようになり,“政策決定プロセスへの患者・市民参加” という点を含め「医療の政治学」の重要性がこの面からも浮上してきたといえる.そしてさらに付言すれば,慢性疾患や高齢者ケアへの疾病構造の変化という点が,こうした患者や医療消費者の視点の重要性ということの大きな背景として働いているといえるだろう.
以下では,「医療費の分配問題」「医療政策への患者・市民参加」「社会保障の中の医療」という三つの点に即して医療政策の決定プロセスをめぐる課題について考えてみたい.
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