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今夏の蒸し暑さには少々参つた。診療所のある東京交通会館は,冷房がよく利いているので,午後4時までは暑さを忘れているが,帰途について地下鉄に乗ると,蒸し風呂に入つたようになり,自宅につくと扇風器でわずかに暑さを凌ぐ。それから2年近くの娘の入院で,あづかつている2歳近くの孫のおもりが私の日課として始まる。これが眠るまで読書も執筆もできない。やつと眠つた頃は,私は疲れてテレビを見て過ごすことが多い。困つたことだが,これが私に与えられた運命であるから,この生活を喜んで忠実に果そうと努力している。しかしこの反面可愛い孫と暮していることで老境の淋しさが救われているのである。
生れてから2年近くまでの幼児の知恵のつき方を毎日見ていると,生命の育ち方の逞ましさは目を見張るばかりである。食べ物を手掴みする。テーブルの上の食器を放り出す。ソースをまきちらす。私の机の上にのつて書類でもインキ瓶でも投げ出す。万年筆のキャップをとつたり,はめたりする。尖が折れはしないかとハラハラする。実に閉口だ。しかしヂッと観察してると,それは皆幼児の真剣な勉強であることが感じられて,叱つては生命の伸展を阻むことになると悟る。こういう心の余裕はわが子を育てる時代にはなかつた。孫の両親はやたらに叱るが,その時の孫の表情を見てると,彼の心に深刻な影響を与えていることが看取されるので,私は心が暗くなる。言語の発育過程も実によくわかる。娘が退院する時期も間近いであろうから,そのうち孫を返さなければならぬが,「ヂヂ」「ババ」と祖父母を慕つて泣くであろう幼児を思うと,可愛そうでならぬが,どうにもならぬことだ。こんな子供にも人生の苦難がもう始まるのだ。もつと悲惨な境遇にある子供と比較すればゼイタクな話だとあきらめるより他あるまい。
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