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古都賛歌(ローマよもう一度)
慌しい欧州旅行から帰つて来た私は或日次の感想とも随想ともつかぬ手記をノートの端に書きつけていた。それはローマを見た愚かれた人達のする事でしかないと言えばそれ迄である。
「……歴史は過去のものでしかない。現在と将来とのみに生きようとあせつて苦悩する吾々現代人にとつては凡らく一文の価値も無いかも知れない。然し過古の世界の歴史が役に立ち度い,否,立つ様な世界,世界の歴史の上に更により良いより優雅なより聰明な世界に生き度い高雅な願いも亦真実な姿であるからこそ多くの人々が無けなしの銭をはたいて,欧州への旅行を企てるのではないか。それ程欧州には人間社会の生々しい歴史が燦然と,而して隠然と遺されている。之を文化と言うならば欧州の文化は具象の世界の中に当時をまざまざと回顧させるのだ。之には言語とか地勢とか原因は色々あるだろう。然し石造の不朽の建造物があずかつて力ありと素人の私は思う。ふんだんに用いられた自然石の大理石,考えただけでも空恐ろしい。数千年前の面影がその石肌に宿つているからだ。ここには又特にキリスト教文化の因習が善きにつけ悪しきにつけ濃淡様々の模様で焼きつけられて旅人は執拗につけまわされるからだ。多くの知名の大伽藍は昔も今も多くの国々から巡礼の老若男女をさし招いている。宗教の暗い隅から或時は鈍く,或時は鋭く,或時は滑稽にさえ人間社会の原罪を説いて倦む事を知らない。信ずると信ぜざるとに拘わり無く欧州の伽藍と古い建物とそして古い凹凸の舗道にまで,キリスト教芸術の圧力が,夜となく昼となくつきまとつて離れない。一日の観光から解き放されてホテルの一室に引揚げた旅人も尚この患苦にさいなまれて弱い肉体を歎いた日々を回想する事であろう。ホットする暇さえも与えないのだ。ローマもフロレンスもヴェニスもマドリッドもそしてパリーも皆間違い無く古い都程この重圧感が強いのだ。
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