扉
医は意也,異也
永井 政勝
1
1獨協医科大学脳神経外科
pp.729-730
発行日 1978年8月10日
Published Date 1978/8/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1436200847
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明治2年,時の新政府が西洋医学を導入するに当たり,ドイツ医学を採用する方針を決めるに至るまでの経緯は,現代日本医学史の扉を彩る重要かつ興味ある一章である.当時の医学取調御用掛,相良知安の建言書によって最終決定に至ったとされておりその内容も有名であるが,一部を再録すると次のごとくである.「王政復古広く海外の知識を求むと云う時にして,漢方は亜細亜の医学なり,故に全世界の医学と為すべきの時なり,(中略).一体独逸は医学万国秀絶いたし,何れの国も規本を此ニ所候訳ニ御座候.仏方の奢侈は未だ国富に適せず故に独に従えり.此時蘭は已に国勢弱くして直ちに独仏の書を読んで翻訳せり,英は国人を侮り,米は新国にして医余り無し,独は国体梢や吾に似て且つ此時未だ亜細亜に馴れず,医は意也,異也,殊に新異に従い敢て独を採れり.」(「東京大学医学部百年史」,傍点筆者)これを読むと,同じ西欧医学とは言え多少ずつ色合の異なった異国の医学を,新しい日本国の意志を以て選択,採用するのだという意気ごみがよく現れている.
さてこのようにして決った方針に則っとり,明治4年8月,政府の正式招聘のドイツ人教師の第一陣として,ミュルレル,ホフマンの2人が来日した.この時のミュルレルの滞日4年間の記録「東京—医学」が,石橋長英,小川鼎三,今井正,3先生の訳により最近発行された(日本国際医学協会).
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