扉
脳外科医の過疎と過密
松岡 健三
1
1愛媛大学脳神経外科
pp.109-110
発行日 1978年2月10日
Published Date 1978/2/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1436200760
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漱石の"坊ちゃん"で知られた四国は伊予の松山──この文豪の若かりし頃は,バッタを蚊帳に入れられるほどの田舎町でしたが,今や人口約40万,四国第一の大都会です.市街の中心,こんもりした緑の山上に,青空を背景として,くっきり浮かび上がる三層の天守閣は,この街の象徴でしょうか.この地が生んだ近代俳句の祖,正岡子規が "春や昔,十五万石の城下かな" と詠んだように,この街には何となく落ちついた駘湯とした気分がただよっています.街の東に,日本最古といわれる道後温泉をひかえ,湯の煙が,家並を暖かくつつんでいるためでしょう.この松山から高松へ通ずる国道沿いに13km東へ行くと重信町志津川という片田舎があります.三方を起伏の多い美しい山なみに囲まれ,遙か東方に,西日本の最高峰,石槌山を仰ぐ景勝の地ですが,ここに6万坪の広大な敷地を求めて,愛媛大学医学部が建設されることが決まったのは昭和47年のことです.
文部省が,無医地区解消,地域医療の向上を謳って,一県一医大の構想をはじめて実現に移したのが,愛媛,山形両医学部と旭川医大で,既存の施設を利用せず,全くの原っぱから国立の医育機関がつくられたのは,戦後これらが最初と知ったときは,いささか意外でした.それかあらぬか,従来の大学人が経験したことのないような苦労の末に,付属病院は51年10月に開院にこぎつけ,脳神経外科は一番しんがりで,52年4月に開設され,早速,講義と診療をはじめました.
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