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これまでを振り返る—「病人と病気」そして「痛み」
これまでの議論を簡単に整理しておくことにしよう。内視鏡やX線写真の発達により、患者の自覚症状に先立って「病気」が発見されるようになる事態を、本連載は「病気」と「病人」の乖離と呼んだのだった。この事態がもたらした恩恵はもちろん計り知れない。症状が出た頃にはもう手遅れであるような病気が発見できるようになり、多くの命が救われてきたことだろう。一方で、「病気」が自覚症状から切り離されることは、あらゆる人を潜在的な病人にしてしまうことにもつながった。はた目には健康そのものの人の体から、初期のがんが見つかるかもしれない。仮になにも見つからなくても、いずれなんらかの病気になることは間違いない。遺伝子診断の時代になれば、そのような体ですら「治療」の対象となるだろう。人の体が生まれた時点で既に「病気」である一方で、医学の目的が相変らず「病気」の治療であるとするなら、できるだけ「生まれない」ことが推奨されるという事態も起こりうるだろうし、出生前診断においては、それが既に現実のものとなっているのである(本連載第3回「『生まれない』ための医学—エンハンスメントの未来」を参照)。
生まれながらにして「病気」である私たちにとって、「慢性疾患」は、いわば生存の条件である。生きている限り「病気」を完治させることは不可能であるとすれば、現代医学にできることは、致命的な病を「慢性化」して、死をできるだけ遠ざけることにつきる。腎臓疾患や、近年であればエイズなど、かつては死が避けられなかったような病気が、継続的な治療さえすれば直ちに命を脅かすものではなくなったことは、やはり現代医学の大きな達成である。だが医学が治すことのできない慢性疾患は、かつては医学の敗北を意味したはずであり、慢性疾患を治療できない医学を批判する書物が、19世紀に数多く刊行されていたことを、私たちは確認しておいた(本連載第4回「慢性疾患は医学の敗北か?」を参照)。ところが慢性疾患状態が人間の生存の条件と化すことで、医学はそれに対する責任を免除される。医学が適切な処置を施した後にも残る慢性的な症状については、患者は黙って耐え忍ぶしかない。人工透析を受ける患者に対してネット上で噴出した自己責任論に対して、医師のなかにすら同調する者がいたことは、記憶に新しい。
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