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日本泌尿器科学会の変遷(3)
田村 一
1
1慶応義塾大学
pp.289
発行日 1967年3月20日
Published Date 1967/3/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1413200133
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その後皮膚科泌尿器科両学会共に総会に申込まれる演題がだんだん多くなり,その処理選択に主催者が頭を悩ますことが年毎にはなはだしくなった,そこで総会の在り方についても種々議論が起って来た。一方両学会が昭和4年以来25年間相携えて総会を催して来たのであるが,学界の進歩は,泌尿器科を外科的に,皮膚科を内科的に進展させ,両学会の鍵となって来た性病も抗生物質の出現によって漸次力弱い存在となって来たので,両学会の合同開催を根本的に検討すべき時期が到来した。これ等の情勢に鑑み,昭和29年度の第42回総会は,会場こそ同じ東大法学部講堂を使用したが,懇親会を上野精養軒に合同で催しただけで,その他は全く独立開催の形式をとつた。当時はまだ殆んどの一般病院では両科が分離していなかったので,両学会に出席聴講するのには5日も滞在しなくてはならぬ過重の負担に嘆息を洩らすものも多かった。従って当時の評議員会に於ける次回および次々回総回の開催地選定に関して,両学会共に種々の議論が湧いた。その翌年即ち昭和30年は第14回日本医学会総会で京都に開催することに決定しているのて問題はなかったが,次々回昭和31年の総会は皮膚科は仙台市(会頭伊藤実教授),泌尿器科は札幌市(会長辻一郎教授)と,それぞれ分かれて開催することになった。
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