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日本泌尿器科学会の変遷(2)
田村 一
1
1慶応義塾大学
pp.175
発行日 1967年2月20日
Published Date 1967/2/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1413200107
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即ち泌尿器科の学会が2つ存在することになつたのである。1つは皮膚病学会に包含された泌尿器科学会で学会名は皮膚病学会であるが雑誌名は皮膚病学及び泌尿器病学雑誌であつた。この学会の事務及び雑誌編集は東大皮膚科教室で行われていた。他の1つは約11年遅れて設立された純然たる日本泌尿器病学会で,幹部は在野の泌尿器科専門家であつた。この学会は先ず初代会長朝倉文三博士の病院に事務所を置き,編集もまたそこで行おれていた。これが大正7年から順天堂病院泌尿器科に移り,坂口勇,上林豊明両博士が編集にあたることになつた。ところが大正12年の大震災によつて被害を蒙りその事務所及び編集部を慶大皮膚科泌尿器科教室に移し,北川正惇教授のもとで宮沢千春,田村一が事務及び編集にあたることになつた。即ち学園と離れて誕生し,そして成長して来た日本泌尿器病学会が,在野の先進と親交のあつた北川教授の尽力によつて,大学と連繋をもつことになつた。そして昭和3年4月3日東大法医学教室講堂に開催された第17回総会で日本泌尿器病学会を日本泌尿器科学会と改称することが議決されて,爾来これが使用されて今日に及んでいる。
前述の如く関東大震災後,学会事務所および編集部が慶大に移されると共に,大正15年4月から北川慶大教授が会長に選らばれた。
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