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2000年の6月,この年はボストンで3年ごとに開催されるHFS Societyの学会があるので行くことにした。HFSとはHarold F.Schuknecht(1917〜1996)の頭文字で,先生の特徴ある書体のサインHFSは,そのままプログラムの表紙に使われた(図1)。この会の名称は先生のご存命中にThe International Otopathol-ogy Society (The Schuknecht Society)に変更され,現在も3年ごとに開催されているが,長年の習慣でついHFS Societyと口から出てしまう。この年は40年近くお付き合いのあるRobert Kimura先生の退職記念会も兼ねており,私にとっても特に大事な会であった。ワシントン経由でボストンへ行く便を選んだが,当時(現在も)ワシントンには東大耳鼻咽喉科から小崎寛子博士がご夫君とともにNIHに留学中であるので,できればお目にかかりたいし,またスミソニアン博物館も訪れたいと思い,ボストンに行く前にまずはワシントンを訪問することにした。
小崎夫妻が空港まで出迎えに来てくれた。そして今夜は「ダンシングクラブへ行きましょう」と彼女は言う。たいしたもんだ。アメリカに来てまだ1か月しか経っていないのに,こちらの生活にすっかり溶け込んでいる感じなのだ。ふと私が留学していた1962年の頃を思い浮かべた。ボストンへ来て1か月の頃は何をしていたか。7月1日からMassachusetts Eye and Ear Infirmaryに出勤し始めた。6月初めに日本から船で送った荷物はまだ着いていない(12月に着いた)。英語もよく聞き取れない。現在と違い,当時の日米間は生活,習慣などの面でも大きな開きがあったのだ。Cul-ture shockの連続であった。とても遠来の客を車でダンシングクラブへお連れするなど出来る状態ではなかった。しかし,ほどなく事情が明らかとなった。
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