- 有料閲覧
- 文献概要
- 1ページ目
I.基底膜の非線形な振動
Békèsyの研究は,それ以前の聴覚学説とは異なり,実証的に基底膜を観察することにより蝸牛の挙動を解析し,その効果が聴覚研究の新しい時代を導いたといえよう。しかし,以降の進歩によりこの業績を多少修正しなければならなくなったようである。彼の観察によれば,基底膜の振幅は入力音圧に比例し,基底膜の周波数選別性はpsycho—physicalなヒトの周波数弁別能から見て著しく鈍い(図1)。彼はヒトの聴覚の鋭い選別性は聴覚伝導路を上昇する間の中枢での情報処理によって達成されると考えた。しかし,図1に見られるように,1次聴ニューロンの周波数域値曲線はBékèsyの観察した基底膜の振動よりずっと周波数選択性が鋭く,特にニューロンの特徴(最良)周波数で宮しく尖鋭化し,域値も非常に低くなっている。基底膜の振動と一次ニューロンの活動との間のこの矛盾から,ヒトの死体の基底膜を観察したBékèsyの結果を再吟味するためMössbauer法,Capaci—tance probe法,Laserを利用した方法など,高い精度を持った新しい方法で生きたモルモットの基底膜の振動の測定が繰り返えされた。しかし,この新しい計測でもBékèsyの直線的な入出力関係と鈍い周波数選別性を再確認するにとどまった。そこで選択性の低い基底膜の振動と高いQ値を示す一次聴ニューロンの活動の間に,もう一つのフィルタを仮定して選択度を上昇すると考えたのがSccond filter theory2)である。一方Rhodeはリスザルの生きた蝸牛を用いて基底膜の振動を観察して違った所見を得た3)。観察している基底膜上の一点の振動はその最良周波数から離れた周波数音に対してはBékèsyの見た通り入力の大きさにかかわらず,入力に比例して直線的に振幅が増大する。しかし図2に見られるように最良周波数では入力レベルが低い程,周波数選択性が鋭くしたがって振幅が相対的に増加して感度が上昇する。最良周波数入力がある程度大きくなると鋭い選択性は次第に飽和して非線形性に振舞う。高い入力レベルでは周波数にかかわらずいずれも同じ割合で入力に比例して振動し,したがって選択性も悪く,Békèsyが死後の蝸牛で見た線形の系と同様に働く。このように彼は弱い入力音に対する基底膜振動の最良周波数附近での周波数同調性は一次聴神経活動と一致する程鋭いこと,この非線形な基底膜の振舞いは死後消失して,線形の系に変り,Bekesyの死後の観察とは矛盾しないことを示した5)。動物の種の相違に帰するにはあまりに大きな基底膜振動の様式の線形,非線形をめぐるこの論争は1970年代を通して10年を越えて続いたが,1980年代に入ってモルモット基底膜の振動にも非線形性が観察され6),Rhodeの非線形性の観測が広く受け入れられるようになった。
この事実に基づけば,入力が弱い場合,最良周波数を中心として基底膜振動のQ値が著しく大きくなり,周波数選択性が向上し,かつその域値が低下する。このように基底膜は微弱な最良周波数振動に対してのみ選択的に非線形に振舞って巧妙に感度と周波数選択性を上昇するが,これは蝸牛内の如何なる機序によるものであろうか。
Copyright © 1990, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.