鏡下咡語
旭川に住んで30年―医学教育からEBMまで
海野 徳二
1
1旭川医科大学
pp.251-253
発行日 2007年3月20日
Published Date 2007/3/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1411100842
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私が旭川医科大学に赴任したのは1976年10月16日であった。附属病院開院が11月1日と決まっており,1期生の耳鼻咽喉科学講義も開始されることになっていた。それに間に合うように着いたのである。今年で満30年になり,世の中は随分変わってきたが,旭川での生活の一部を振り返ってみたい(図1,2)。
国立単科医科大学は当時の医師不足を補うために『1県1医科大学』構想で始められた。北海道は面積も広いし,医師不足の程度も強いという理由で3校目の設置が認められたもので,教職員はいかに立派な医師を教育するかに熱心であった。夏休みの時期には医学教育ワークショップが構内の教室を利用して2~3日開催されるのが常であり,task forceと呼ばれる指導者が出張してきていろいろと教えてくれた。旭川医科大学では2年継続のクラス担任1名が指名されるようになっていて,私が3期生の5,6学年担任になったのが1979年4月であった。その学年の入学生100名は留年などで90名になっていたが,彼らの顔と名前を一致させるのが第1の仕事であった。その年の秋には富士医学教育研修会(以下,富士研と略)が富士吉田の研修施設で1週間泊り込みで開催された。1980年7月には医学教育学会が旭川で開催され,鈴木淳一教授,小松崎 篤教授,野末道彦教授,中井義明教授などが参加された。中井教授が予定された帰路の便は雷雨のため欠航となり,『田舎の空港』という苦情を何回も聞かされた。
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