Ⅶ温故知新
其の後の鹿兒島茂先生
南 熊太
pp.89-91
発行日 1948年5月20日
Published Date 1948/5/20
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410211094
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鹿兒島先生が熊本醫大に着任せられたのは大正15年1月であつて,御在職中は所謂口八丁手八丁の積極的の活動家であつて,學生の教育は勿論辯論部長としては學生と一緒に南九州地方を講演して廻られるし,乘馬部長其他色々の運動部の部長として活動されるし,眼科教室が教室員研究生も熊本醫大内にも最も多く且つ研究も最も活溌であつて,患者も外來入院共に其の數に於ても收入の點に於ても熊本醫大内に於て最も多き時代を現出され,學會としては日本に於て最も古き(明治28年5月創設)歴史を有する熊本眼科集談會をもり立てて毎月盛々に開催し,教室員は勿論,教室出身者,熊本縣下眼科開業醫の指導啓蒙に意を用ひられ,又沖繩縣,大分縣下各地に出張檢診されるし,特に熊本盲人協會を組織しては毎年熊本縣下の隅々まで檢診,閉眼手術をされてゐたので山間漁村に至るまで先生を知らぬ者は無き状態にて縣民よりは眼の神樣と言はれ敬はれてゐた。(當時熊本出身の安達謙藏氏が選擧の神樣と言はれてゐた頃)先生の短躯,超肥滿型のビール樽の如き腹,口唇の上下の特有なる鹿兒島式のヒゲにて,ヒゲの先生と言つて子供も先生になつき,診察室に於ても先生は子供をあやすのが心から好きの樣てあつた。
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