醫局だより
長崎醫大眼科教室
pp.130
発行日 1950年3月15日
Published Date 1950/3/15
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1410200554
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終戰以來あしかけ6年,既に人々の顔には当時のどすぐろい疲勞した蔭は無く,死の原野浦上には戰災者住宅建ち並び,逞しい更生力を示して居ますが,未だ原爆の跡は所々に生々しく悲慘だった当時を囘想させます.
原爆による母校の慘過は余りに大きく,基礎は一瞬全滅,病院は辛うじて外郭を殘し得た丈で壊滅致しました.眼科は幸い火災を免れ,辛うじて図書は殘りましたものの,山根教授始め婦長以下7名の殉職者を出しましたのは,その犠牲の余りにも大きくて,一時は全くどうして良いかわからない状態でした.然し皆の一時絶望の氣持も,故角尾学長,故山根先生始め諸先輩同僚の最後の言葉に励まされ,大学の復興浦上の復旧の氣運次第に起り,20年11月市内國民学校の一窒に名許りの診療を再開,次いで現大村國立病院,次いで其処を追われ,諫早に移轉.2ケ所に分散して形許りの大学を再興し現在に至つて居ります.
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