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「教科書を信じてはいけません」。もう30年ほど前のことだが,中学校に入って初めての理科の授業で聞いた一言が今も忘れられない。先生は物理学が専門だった。ちょうど私のクラスの担任だったからその他にもたくさんの言葉を交わしたはずなのに,この一言だけがずっと心に残っている。「自然科学は,これまでにわかったことを最も辻褄が合うように説明しているお話なのです」という先生を,「変な人!」と思っていた。また,その学校は,教員を目指す教育実習生をたくさん受け入れていた。学生さん達の努力を間近で見ていて,自分にはとても教員は務まらないと子供心に強く感じていた。
ところが,医師となり,年月が流れ,気がついてみると学生さんの前や看護学校などで講義をする機会をいただくようになった。大学病院でなくても身近には「研修医」と呼ばれる若者がいて,私は指導医と呼ばれる立場にもなった。自分では何気なくしゃべった一言を必死に赤いペンでメモしている人の姿を見ると,「嘘かもしれないよ,鵜呑みにしちゃだめよ」と私の心の声はささやく。さすがに講義中にそんなことは言えないので,もっともらしくしゃべる。一生懸命聴いてくれるのは嬉しいが,実はちょっと怖い。それなりに話の準備はしてきたつもりなのに,日々の診療でも当たり前になっていることなのに,素朴な質問が一番恐ろしい。理由を知らず,結論だけを記憶してしまっていることが,多分たくさんある。忙しさにかまけて,自分で考えることを忘れてしまっているかもしれない。世の中にはまだわからないことが山ほどあって,でも目の前の患者さんの希望もできるだけかなえたい。去年まではあきらめないといけなかったけど,今は新しい薬があることもある。反対に,これまでみんなが良いと思っていたのに,気付いたら「効果なし」とばっさり斬り捨てられてしまったこともある。私が知らないだけかもしれない。科学は日々進歩している(はず)。医療は単なる自然科学ではないが,医学を正しく理解したい。目の前の患者さんも,もしかしたら病院に来てちょっと緊張して,言いたいことの半分もしゃべれていないかもしれない。ほんとは別に気になることがあるのかもしれない。
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