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編集部からの突然の御依頼なので,私にとっては絶対無くされては困るものではあるが,意を決して5葉を選び,原稿を共に送る事にした。ただし筆者の「人生に決定的な影響を与えられた」などというものではない。そういう写真は1枚もないが,何れも私個人にとっては忘れ得ないものである。写真が主題なので以下順を追ってこれら5枚の写真にまつわる思い出を語ることで責をはたしたい。
1.昭和7年7月(東大旧病室の中庭にて):私は昭和4年の卒業で,当時の大学院に入学許可され,細菌免疫学の研究から出発した。本当は内科を勉強したいと思ったのであるが,そのためには当時,最も注目されていたテーマとして感染症があったので,その基礎的な勉強をしてから,と思ったのである。基礎研究というものは大変なもので,一生それに取組むことには父親の反対もあり,3年で臨床に移ることにしたが,当時,私の希望していた稲川内科も,また第2希望の青山外科(青山教授は郷里の大先輩)も新卒でないと採用しないという事で,3番目に大きい科ということから産科婦人科教室へ入局した。ここでは,産科臨床の実際については,今考えてみても,これほど秀れた方はいないと思われる磐瀬教授と,洋行帰りで教室の研究や運営を委されてバリバリやっていた極めて人間味の充ちていた安井助教授が中心だった。この写真は中央の腰かけている右側の令嬢(どこかの財閥の秘蔵令嬢で,たしか卵巣嚢腫の摘除を受けた人)の退院時の記念写真。後列の左から黒田副総婦長(美人で,こわい人),医局長の奏清三郎先生(後に癌研初代び)産婦人科部長から東京医大教授,お若くして逝去,人柄は純真そのもの),安井助教授,橋爪一男主任医(ハウプト,画家で芸術家タイプ後,日大教授となられ,退職時後任に私を強く要望され1ヵ年待たせてしまったが,白木先生から,澤崎千秋君にゆずってくれといわれ,そのようにした,思出深い人),筆者,付添い。先生上方はみな逝くなられた。
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