思い出の写真
私を産婦人科医として駆立てられた恩師大野精七先生の思い出
小川 玄一
pp.316-317
発行日 1986年4月10日
Published Date 1986/4/10
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1409207373
- 有料閲覧
- 文献概要
小さい頃,何になりたいという子供は多かろうが,何にはなりたくないという子供は少ないのではないかと思う。ところが,私はお医者だけにはなるまいと思っていたようだ。確か中学3,4年の時だったと思うが,祖母にあなたは将来何になるつもりかと問われ,咄嵯のことだったし,ちょうど4,5日前にアートスミスの宙返り飛行をみて感心した後だったもので,飛行家になりたいといってしまった。もとより祖母は血相を変えて,お医者にならねば一家断絶するではないか,あなたには産科のお医者になってほしいのだとすすめられたことがある。
では,私はなぜお医者が嫌であったかというと,わが家は代々医業が引き継がれ,祖父の代まで4代とも産科医で通り、父は婿養子で耳鼻科を標榜していた。しかし,いくら産科医だとか,耳鼻科が専門だとかいっても田舎の町医者であっては感冒の手当ても,はやり眼の治療もせねばならなかったことはいうまでもない。したがって,父は毎日のように午後になれば主に内科の患者の往診に出かけたし,夜中の救急患者に往診を乞われることも珍しくはなかった。だからこそ。わが家には抱えの車夫がいたが,父は昼間の往診には家の車夫1人でまにあわせたのに夜の往診には患家が遠ければ町の車夫をも呼び2人曳きのことが多かった。そんな時は,とかく家中がざわめくので,両親と隣りあわせの部屋に寝ている私や妹はたいてい眼を覚ました。
Copyright © 1986, Igaku-Shoin Ltd. All rights reserved.