追悼
Küntscher教授の思い出
天児 民和
1,2
Tamikazu AMAKO
1,2
1九州大学
2九州労災病院
pp.253-254
発行日 1973年3月25日
Published Date 1973/3/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1408904818
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Küntscher教授は昨年12月18日突然急死せられた.机に向つたまま倒れて遂に回復しなかつた.彼は1903年の生れで,まだもう少し働ける年齢であるとは思うが,これも彼の天命であろう.彼と私とは長い間の交友である.彼は親もなく,1人の兄は東独に去り,終生結婚もせず全く孤独な生活であつた.ただ自分の仕事に精魂を打ちこんだ.
元来彼は絵を画いたり,機械をいろいろ工夫したりすることが好きである.ドイツでも彼のことをInstrument Spielerei(機械道楽)という人もある位である.彼は元来外科の出身である.Kiel大学の外科学教室の骨折病棟の主任をしている時にSmith-Petersenの三翼釘がようやく欧州でも盛んに用いられるようになつてきたが,その操作の簡単なこと,その固定力の優れていることに彼も感嘆をした.このアイデアを長管骨に用いたいと考えたのが最初である.そして大腿骨折に対して大転子から骨髄を通して釘を打つ方法を考え出した.それを1940年に発表した.丁度第2次世界大戦が始まる直前である.この方法を彼は戦傷患者に大いに利用したが,彼がこのような大きな釘を骨髄内に打ちこむことができたのは不銹鋼の発達のためであるが,前記のごとく図を書くのも趣味の一つで釘の打込む方法も苦心して考案した.その論文,著書の図は全部彼の自筆であるが,太い力強い線で要点を正確にかく技術は専門画家も一寸彼にはかなわないだろう.
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