コラム
慶應義塾医学所と松山棟庵
三笠 元彦
1
1新横浜整形外科リウマチ科クリニック
pp.438-439
発行日 2018年5月25日
Published Date 2018/5/25
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1408201087
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月刊「東京人」2015年12月増刊「慶應義塾大学医学部の100年—異端と先導」に,明治8,9年頃の芝 三田の慶應義塾の地図(図1)が載っていた1).東南部に福澤諭吉の邸宅があり,北側に慶應義塾医学所がある.医学所は明治6年(1873)10月に開設され,大学東校(東大の前身)がドイツ医学で教育しているときに,イギリス医学を教授していた.初代校長は松山棟庵(図2)で,明治13年(1880)6月に財政難で閉校するまで300人の卒業生を輩出した.この医学所は慶大医学部の源流である2,3).
松山棟庵は,住居が福澤邸の北側にあり,医学所の東側に屋敷があった小幡篤次郎とともに,諭吉の高弟である.医学所閉校後,棟庵は明治13年(1880年)11月に英国から帰国した高木兼寛とともに成医会を発足し,有志共立東京病院(のちの慈恵医大)を設立した4,5).また,1875年に福澤邸の南側,国道を挟んだ反対側に診療所 尊生舎を開設し,1893年に尊生病院,1906年に松山病院と改称し,1936年に新築された(図3).松山病院には,前田友助が東大外科から慶大医学部整形接骨科初代教授に転ずる前,1917〜1919年の2年間,外科部長として赴任していた6).松山病院は地域病院として繁盛していたが,昭和20年5月25日の空襲で焼失して,再建されることなく閉院した.筆者は焼失前の松山病院を憶えている.5歳の時の記憶でおぼろげであるが,白亜の2階建ての瀟洒な病院であった.
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