連載 整形外科と蘭學・7
華岡青洲と整骨術
川嶌 眞人
1
Mahito Kawashima
1
1川嶌整形外科病院
pp.76-77
発行日 2004年1月1日
Published Date 2004/1/1
DOI https://doi.org/10.11477/mf.1408100354
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明治4年(1871),中津の片端町に中津医学校が創設され,その取立方すなわち校長に大江雲沢(1822~1899)が就任した.鷹匠町にある大江家を調査したところ,「解体新書」をはじめとして約1,000点の史料が発見され,中でも江戸末期に医のリスクマネジメントを記載した「医は不仁の術,務めて仁をなさんと欲す(医療は必ずしも仁術のみとは言えない.だからこそ常に患者のために努力して仁術を尽くすべき)」の雲沢の書とそれを詳述した書物には現在でも心を打たれるものを感じる(図1).「医は不仁の術」は近年,臨床薬理学会,胸部外科学会,インターベンション学会などでもテーマに取り上げられており,古今を問わず,医師が直面している大きな課題であることに変わりはない.
大江家の史料の中から華岡青洲(1760~1835)の画像や手術書(青洲所診画帳)が発見されたことから,和歌山県の県立博物館や那賀町平山の華岡塾跡地まで行き,門人帳を調べたところ,天保12年(1841)の春,雲沢は大坂分塾(合水堂)に入門していたことが判明した.
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